発言集団「きづな」

10/24/2014

天皇と政治   「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 4:59 AM

 九月七日、ブエノスアイレスで開かれたオリンピック招致委員会に高円宮久子妃殿下が出席してスピーチをされたが、これを皇室の政治利用だとする批判があつた。
 確かに、マドリード、イスタンブール、東京がしのぎを削つて争つてゐる問題に、たとへ大震災の復興支援への感謝の礼を述べるといつた限定がついたとは言へ、東京開催を狙つて宮内庁が動いたとすれば、それは広い意味で皇室の政治利用に当るだらう。しかも、宮内庁長官が、「総会出席は五輪招致活動と見られかねない懸念もあり、苦渋の決断だつた」と述べているところを見れば、自発的に協力したのではなく、政府からの強い指示があつたことを示してをり、かなり強引で露骨な政治力がからんでゐることゝ思はれる。
 これに対して、今回はスペイン皇太子が参加し、過去にもイギリス女王などヨーロッパの王室がオリンピック誘致の発言をしてゐるから、わが国もこれ位は許されて然るべきだとする擁護派がある。
 しかし「日本国憲法」においては、「天皇は国政に関する権能を有しない」と規定されてゐるのだから、事情の異なる他国と比べるのは適切ではないだらう。
 今年の四月二十八日に安倍内閣が突如として主権回復の式典を行なひ、天皇・皇后両陛下にご臨席頂いたのも政治利用と言へるかも知れない。この種の式典は、政府・与党のみではなく、野党の大方の賛同を得て、ほゞ国民的な合意の上で挙行するなら意味はあらうが、今回は確かに一部政治勢力の要望に安倍首相が応へた形になつたから不自然であつた。その結果、小さい会場でごく少数の出席者の中で行なはれ、しかも閉会間際に両陛下がご退席の起立をされようとした時に「バンザイ」の声が上がり、首相も両手を上げて同調したので、一部マスコミはこれを右翼化、政治利用だ、と批判した。

 しかしながら、これより更に強引な政治利用は、平成二十三年秋、民主党の小沢一郎幹事長が慣例を破つて、中国の習近平氏を天皇陛下に会見させるといふ不祥事があつた。これと比べると、オリンピック招致、主権回復記念日の皇室利用など、ほとんど取るに足らず、むしろほゝえましい慶事といふことになるであらう。
 そして、さらにこれより質の悪い政治利用は、今上陛下に対して先の戦争への反省と謝罪の言を述べて頂いたことである。たとへば、平成二年五月二十四日は、韓国の盧泰愚大統領に対して「我が国によつてもたらされたこの不幸な時期に……」と、日本の加害を反省され、平成八年にも宮中晩餐会で金大中大統領に「一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは……」と仰つた。
 しかも平成四年秋、訪中された陛下は、十月二十三日に、「両国の関係の永きにわたる歴史において、わが国が中国国民に対して多大の苦難を与へた不幸な時期がありました。……」と謝罪された。この事により、天安門事件で国際的に孤立した中国を救つたことになり、人権を弾圧した共産党政府への制裁を行つてゐた西側諸国の連帯を破り、日本が顰蹙を買ふ結果となつた。これは自民党宮沢内閣のご訪中断行政策によるもので万死に値する大罪と言はねばなるまい。戦後政治の中で最悪の皇室利用であつた。

 実際のところは、天皇・皇室の政治利用の問題は難問である。なぜなら、政治の範囲が明確に定まつてゐるわけではなく、こじつければ多くの事象が政治に関はると解釈できる余地が残されてゐるからだ。
 この問題の根本的解決には発想の転換しかあり得ないのではないか?つまり日本国憲法の第一章「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、その地位は主権の在する日本国民の総意に基く」の条項により、国民が主であり天皇は従であるとの認識が広がつてしまつた。「利用」といふ言葉自体が相手を貶めてゐることは明白だらう。
 それは本来の天皇存在の意義を無にするものであつて、天皇はあくまで政治の主体となるべき存在であり、国民はそれを補佐申し上げ、君民一致して理想実現を果たすべきなのだ。したがつて、来たるべき新しい憲法の第一条は次のやうになることが望ましい。
「万世一系の天皇は日本国の元首であり、日本の文化・道徳・宗教・政治の中心となる君主であつて、国民とは君民共治の関係を保つ。」
 そんな条文で現実の政治が混乱なく円滑に進むのか、といつた疑問や疑念は百出するかも知れない。しかしそれは発想の貧困に根ざしてゐるとは思へないだらうか?
(「きづな」平成25年10月号より)

憲法改正の核心とは 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 4:58 AM

 第二次安倍政権の歴史的使命は、近頃口にはされてゐないが、「戦後レジームからの脱却」であり、具体的には、その最大の仕事は憲法改正である。
 さて、では憲法をどのやうに改正すべきかについては、甲論乙駁様々な立場があるが、私見では「ともかく改正すれば良い」のである。これは暴論で安易のやうに思はれるかも知れないが、「米国製憲法」を押し付けられ、しかも「平和憲法」として推し戴いて六十数年の現在、「不磨の大典」としてこれを神聖視し、世界遺産登録を口にする者まで存在する。その中心的勢力がいはゆる「朝日・岩波・NHK」であり、無論毎日も日教組も、共産党や社民党もこれを強力に支持してゐる。
 「9条の会」は早くから活発に動いて、憲法第9条を守るための運動を展開してきたが、この度、安倍政権が96条を改正しようと打ち出した為、それを阻止するための「96条の会」が結成された。のん気な保守派の中には、国民も6~7割が憲法改正を支持してゐる、などと楽観視する者もゐるが、その実現はとても生やさしい仕事ではない。いきなり大手からの攻略は難事中の難事なのだ。

 さて、改正の“本丸”は言ふ迄もなく、第一章「天皇」と第九条「戦争の放棄」であるが、この改正には5年や10年といつた短時間に達成できるものではあるまい。96条改正自体が難題で、参院選に当たり不利と見た自民党は、それをほとんど封印したやうに、今日の日本の思想状況からして前途遼遠であらう。
 無論、一点突破を目指して挑戦してみる意味はあるから、改正派の国民はそれぞれの立場で協力すればよい。
 だが同時に、それが失敗し挫折した際の二の矢、三の矢を用意する智慧も磨いておかねばならない。そしてその一つが、何でもよいから「ともかく改正すれば良い」といふ戦略である。なぜなら、いはゆる護憲派は、少しでもこれを改悪すれば日本は再び軍国主義になり戦争に向かふ、と国民を脅し続けてきたし、国民の過半もさう洗脳され続けてゐるから、まづこれを打破するのだ。
 ちなみに、この数ヶ月の朝日新聞・毎日新聞の読者欄を見るがよい。毎日の如く、「戦争反対」、「あの地獄の苦しみは忘れない」、「二度と悲惨な戦争を繰り返すな」、「わが子を兵隊に取られるのはイヤ」、「二度と若者を戦場へ送るな」、「戦争の放棄が一番」、「アジアへの侵略を忘れたか」、「憲法改正は軍国主義と徴兵制に道を開く」、「軍国主義阻止」、「憲法改正絶対反対」、などなど戦争への恐怖を語る文章が掲載されてゐる。
 これらは、二つの新聞の主張そのものであるが、それに同調する数多くの国民が存在してゐることも事実なのである。そこで智慧を働かせて、猛反撥を受ける本丸を避けて、さゝいな条項でも良いから、まづ変へてみるといふ搦手からの攻略を考へるのが賢明であらう。思ひ切つて公明党の唱へる「加憲」から始めるのも一案である。

 では、大手からの“本丸攻め”についてはどうすべきなのか?
 まづ、天皇条項については、第一条の「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、その地位は主権の存する国民の総意に基く」を削除ないし修正することである。周知のやうに、これを国民主権の下で天皇の存在が認められてゐると解し、国民が天皇を不要と思へば天皇制を廃棄できると解釈する者が多くなつてゐる。
 またそこ迄行かなくても、保守派の論客で皇位継承を多数決で左右できると考へ、男系主義運動に血道を上げたり、次期の天皇を誰にすべきか選択できるやうな不遜な言論を発表する者も存在する。また皇太子と同妃バツシングの言論も野放しにされてゐる。それらは日本国憲法のこの条項に毒されてゐる結果なのだ。
 天皇存在の神聖性と「君臣の別」を明記した条項へと改正すべきである。
 次に第九条については「戦争の放棄」などは削除すべきである。国際法や国連憲章に明記されてゐると言われるが、それなら個別の国法に掲げる必要はない。国連の常任理事国で「戦争の放棄」をうたふ憲法を持つ国など存在しない。
 国際法では今もなほ、戦争が容認されてゐるのであり、「侵略戦争」を否認してゐるに過ぎない。他国が「正義の戦争だ」と言つて仕掛けてくれば、国家はこれに対して「防衛戦争」だと応じる権利と義務が生じる。反戦、不戦を口にするだけでは容易に支配を許してしまふだらう。
 武力を備へて自衛する権利や交戦する権利は独立国に与へられてゐる。戦争恐怖症の護憲派国民には、アメリカに支配されてゐる現状では日本が戦争に向ふことはあり得ない、と教へてあげることだ。
(「きづな」平成25年9月号より)

安倍首相への要望、「皇室典範」改正 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 4:57 AM

 参議院選挙は、大方の予想通り、自公の大勝となり、ねじれ現象は解消となつた。いよいよ安倍政権の本領が発揮される時期に入つた。国内では成長戦略が問はれ、国外問題では尖閣の防衛が最優先課題である。
 無論、最終目的は憲法改正の大事業の達成であり、そのためには最低あと三年の長期政権を必要とすることは言ふまでもない。保守層は一致して辛抱強く安倍政権を支へるべきであり、靖国不参拝や中・韓との一時的融和策が実施されても短兵急にそれを非難すべきではない。歴史認識を含めてわが国は追ひ込まれてゐる状況にあり、政府には出来る事とできない事があるからである。

 さて、大半の保守層が考へてゐないことで、日本の根幹に関はる重要問題であり安倍内閣のすぐ取り組むべき課題が一つある。皇位継承問題だ。野田政権が「女性宮家」を目指してヒアリングを行なひ、国民各層の声を求めた昨年十二月に政権が交代したが、強い男系論者の安倍氏は「女性宮家」創設が将来の女系天皇につながるとの懸念から、半年以上この重大問題を封印してきた。今後もそのまゝ放置すれば怠慢のそしりを受けねばならないだらう。
 周知のことではあるが、将来皇位が悠仁親王に移つた時点では、宮家は皆無になる。その時を待つてゐれば、皇室の崩壊はとゞめ難くなる。即刻「典範」を改正して皇室の永続を図らねばならないが、方策は二つある。一は「女性宮家」の創設であり、もう一は「旧十一宮家」子孫の皇籍取得である。
 前者については野田内閣が、皇位継承と関はりはなく、愛子・眞子・佳子三内親を当主とする「女性宮家」創設を原案としてゐたが、安倍内閣はこれを引き継ぐべきである。昨年十一月に国民の声を聞いた折、男系主義運動の大量の組織票によつて反対が圧倒してゐたことが公表されてゐる。しかし、このやうな厳粛な重大問題を人気投票並みの低次元の扱ひで終らせるべきではあるまい。
 後者についても、実現に向けた方策を推進すべきであるが、どの家系のどなたを復帰させるのかは、複雑で難問といふことにならう。

 筆者は、女系天皇絶対反対の男系主義者ではないし、旧十一宮家皇族復帰に反対する女系容認論者でもない。最終的には皇室のことは皇室にお任せすべきであり、天皇陛下の御聖断に委ねるのが最善とする慎重派である。たゞ、そこに到る迄の過程については議論せざるを得ないから、国民は謙虚にして慎みを持たねばならない。一介の国民が大上段に「絶対!」を叫ぶ傲慢さは控へるべきで、それを忘れては皇室を語る資格がないと考へる。
 その上で、私見を申し上げれば、「皇室典範」を次のやうに改正することを提案したい。
 1 三内親王のご結婚までに「女性宮家」を創設し、配偶者及び子孫を皇族とする。
 2 女性天皇・女系天皇を公認する。但し、資格者は新たに誕生する子供に限る。
 3 明治天皇と昭和天皇の女系の子孫の中、適格者を皇族とし、廃絶宮家の養子への道を開く。婚姻後は、その子孫を皇位継承資格者とする。
 4 明治天皇と昭和天皇の女系の子孫の中、適格者を三内親王の婚姻候補とする。婚姻成立後は、その子孫を皇位継承資格者とする。

 2に関して付言すれば、側室制度のない現在、必ず男児によつて継承を行なふことは至難である。実際、十数年後には、悠仁親王の縁談が浮上するだらうが、皇妃になる女性が存在するのか疑問である。現皇太子妃バツシングの源は男児を生まなかつたといふ一点から発してをり、男系主義が人を不幸に陥れることは、賢い女性なら誰もが了解しよう。
 「万世一系」を「万世男系」と錯覚したり、破綻したY染色体論にしがみついてゐる場合ではない。生身の悠仁親王に万一、不測の事態が生じれば万事休すとなる。安倍首相の決断を促したい。なほ、3・4の子孫とは、東久邇・朝香・竹田の三家である。
(「きづな」平成25年8月号より)

大切な皇室への祈り(再続) 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 4:55 AM

§、皇太子殿下への祈り

 「現人神」である天皇への私の祈りは前号に記した通りであるが、天照大神の御導きは天皇に限られるものではない。近い将来皇位を継承される皇太子に迄及んでゐることは理の当然である。今日、週刊誌や月刊雑誌などで興味本意に東宮家の“危機”(?)を伝へる記事が横行してゐる昨今、そのご安泰を願ふ私の祈りは皇太子殿下にも捧げられる。
 「アマテラスオホミカミ、ヒツギノミコを通してオホヤマト(全日本)を照らし、愈々その光を増してアメノシタ(全世界)を照らし給ふ」

§、ご訪蘭と妃殿下

 この度、皇太子殿下は妃殿下と共に、オランダの新国王即位式の招きに応じて訪蘭された。妃殿下の公務としての外国ご訪問は十一年ぶりであり、ご不調からの回復の兆しが見えてきた。ご訪問是非についての医師の判断が難しく、招待への報告がかなり遅れたとはいへ、国民こぞつて慶賀すべき吉事である。七年前の平成十八年、オランダに父君の小和田恆氏が在勤されてゐたこともあり、静養のための訪蘭はあつたが、本来、外遊を望まれてきた妃殿下にとつても自信を回復される好機となつたであらう。
 ところで、小和田恆氏に関して西尾幹二氏は、皇室の存在を脅かす危険な存在として描いてきた。いはば皇室乗つ取り計画があるとし、妃殿下が皇后になつた時、皇室の伝統が破壊され消滅に向ふといつた危惧であるが荒唐無稽の妄想といふべきであらう。仮に西尾氏の言ふ通り小和田氏が反皇室の思想の持ち主だとして、その意向を娘の雅子嬢が受け継いでゐたとしても、一人の女性の意思によつて、伝統的存在である皇室のあり方を左右できよう筈がない。
 周知のやうに、妃殿下のご不調は仮病などではなく適応障害なのであり、それは民間の元外交官の皇室での生活への不適応といつた単純な理由ではない。長期にわたる不妊治療に苦しまれ、何としてもお世継ぎを産まねばといふ責任感と、周囲の関係者はじめ国民全体の期待から来るプレッシャーが原因であつた。懐妊したお一人目が流産となり、その後出産されたのが愛子内親王であつた。女児であるが故に国民の慶びも半減し、心から祝つて貰へないことへの妃殿下の衝撃と失意は少なからぬものがあつた、と推察される。その後も懐妊されることなく、その結果適応障害が益々深刻になつたのが事実である。日本国民としての反省は、必ず男児を生まなければ皇太子妃として一人前ではないとの圧力を与へないやうにすべきであり、これは将来の課題だといへる。

§、大切な斉家

 さらに我々が踏まへておくべきことは、愛子内親王が小学校でいぢめに合つたり、疎外されるやうな事態に陥つた際、両殿下がこれを重く受けとめられ、わが子を守るために心配りをされたことは、親としての当然の義務だつたといふ点である。
 マイホームを優先して日本国と日本国民のことを後回しにしてゐるなどといふ批判は全く的外れである。修身・斉家・治国・平天下の言葉もあるやうに、家庭をとゝのへることは欠かすべかざる重要事である。両親として子供の不具合心配し、できる限りの支援をすることは当たり前のことであり、昨今、家庭や家族の崩壊現象が増えているわが国において、率先垂範して家族の安寧のために力を尽くされてゐるお姿は、何よりも尊いことである。それこそが東宮の日本国民に資する最高のお働きであらう。

§、比較はやめよ

 世間には、同じく民間から皇太子妃となられた現皇后陛下と雅子妃殿下とを比較して優劣を論じる者も多いが、個性も時代背景も置かれた環境も異なるお二方を比べることが無理であることに気づかねばならない。
 比較と言へば、皇太子殿下と秋篠宮殿下を比べて、秋篠宮の方が天皇にふさはしいといつた暴言を弄する者もゐるが、国民にはそのやうに品定めをする権利は与へられてゐない。皇太子に、もつと早く若い女性と結婚して子供を産むべきだつたなどと批判するのも、ご人格を尊重しない身の程知らずの発言である。
 皇室が聖なる存在であるとの一片の認識があれば、そのやうな畏れ多い言葉が出てくる筈はあるまい。やはり日本国民に求められるのはご皇室への祈り、天照大神のご加護への祈りなのである。
(「きづな」平成25年6月号より)

大切な皇室への祈り(続) 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 3:59 AM

 §、天照大神への信仰
 
 言ふまでもなく、天照大神は日本の皇祖神であり、その御神勅によつて日本の永遠の繁栄が宣言、確約されたといふのが、古来の日本民族の信仰である。
 「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就きて治せ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無かるべし。」
 『古事記』『日本書紀』の神話では、大神の五代の子孫である神武天皇が橿原の地で建国された際の御詔勅は次の通りである。
 「上は即ち乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は則ち皇孫、正を養ひたまふ心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて都を開き八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。」
 この後、歴代の天皇は天照大神を仰ぎ、その御心を継承すべく神祭りを実行されてきた。たゞ大神の子孫であるといふに留まらず、その御心を心として統治に当つてこられたのである。
 そして国民の側でも、日蓮上人が「日本国の王となる人は、天照太神の御魂の入代せ給也。」と喝破したやうに、天照大神の御霊が天皇霊といふ形で代々受け継がれてゐるとの信仰を生み出した。日本民族は天皇の背後に天照大神の御働きがあるものと信じ、大神への礼拝と祈りが天皇の御威徳を増すといふ感覚を抱いてきた。
 「窟戸一たび開きて神光今に輝き、天孫始めて立ちて宝祚ますます昌なり。」(徳川光圀)や、「天照大神の御恩を思ひ出さば、即其御子孫の大君、たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるるとも、始より一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや。」(武内式部)などは、大神の御威徳の存在を前提にして皇位への帰依・忠誠を確認した言葉と言へよう。

 §、天皇の祈り

 無論、歴代の天皇方も天照大神の祭祉を通じて常に一体感を維持されてきたのであり、次の御製には天照大神信仰が如実に示されてゐる。
「もろおみの朕をあふぐも天てらす皇御神の光とぞ思ふ」(第116代桃園天皇)
「千世万なほもかぎらずあふぎみむあまてらす日のあきらけきかげ」(第117代後桜町天皇)
「大神のまもる恵に日本のくにてふ国は千世も動かじ」(第119代光格天皇)
 これらは徳川幕府によつて抑圧を受けてゐた時代のおほみうたであるが、揺るぎない天照大神への信仰が示されてゐる。
 近代に入つても、明治天皇は天照大神を仰ぐ御製を数多く詠んでをられるが、代表的なものは次の通りである。
「国民のひとつ心につかふるもみおやの神のみ恵みにして」
「くもりなき朝日の旗に天照らすかみのみいづをあふげ国民」
「さしのぼる朝日のかげを鏡にて世をくまもなく照らしてしがな」
 そして昭和天皇にも、
「さしのぼる朝日の光へだてなく世を照らさむぞわがねがひなる」
がある。

 §、「現人神」の天皇

 この天照大神への信仰に基づいて、天皇を「現人神」とした仰慕の心を持たなければ、天皇といふ存在がたまたま皇室に生まれてきた一人の人間に過ぎなくなり、「元首」や「象徴」として国民の上に君臨する根拠は失はれるだらう。だゞの封建的な世襲によつて天皇といふ位を得たことになり、国民の尊敬を集めることは不可能になつてしまふ。
 今上陛下や皇后陛下のやうな気高い道徳心を備へてゐる場合は国民の尊崇を得るだらうが、場合によつて欧州王室のやうに親しみの対象に過ぎなくなつたり、もし不徳の天皇が出たりすれば国民の心は離れて行き、皇室の永続も危ふくなつてしまふ。個々の天皇の人間性だけに依存してゐては、皇室の将来は安定しないのだ。
 周知のやうにシナの易姓革命の思想では、皇帝の徳が失はれゝば天命を受けた有徳の士が現れて、既成政権を打倒して新たな王朝を樹立することになる。だが、わが国では、そのやうな革命思想とは無縁であり、正統に皇位を継承した天皇個人の資質は第一義のものとして絶対視も重要視もしない。国民は天照大神の御加護が天皇を通して発揚することをたゞひたすら祈るのであり、その祈りの力により天皇はその個性に応じて力を発揮される。
 祈りには定まつた形式があるわけではないので、国民は最もふさはしい形を選べばよい。ちなみに私の祈りの言葉の中には、「アマテラスオホミカミ、スメラミコトを通して全日本を照らし、愈々その光を増して全世界を照らし給ふ」がある。
(「きづな」平成25年5月号より)

大切な皇室への祈り 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 3:56 AM

§、不謹慎な提言

 宗教学者の山折哲雄氏が『新潮45』3月号に「皇太子殿下、ご退位なさいませ』を発表して波紋を広げてゐる。
精神的不調が続く妃殿下を庇つて憂愁の度を深める皇太子に対して、妃殿下の健康回復のためには秋篠宮への譲位宣言をして、静かな環境の京都に居を移すのが最良の策だとの内容である。
 皇室の将来のためにも、「皇太子さまは、第二の人生を選ばれてもいい時期ではないだろうか」とのご退位のすゝめであり、一読して皇室のため、また両殿下のためを想ふ山折氏の善意が滲み出た提言であることは疑ひがない。両殿下の苦悩、両殿下の憂ひのお気持を拝察して山折論文に共鳴共感する国民も少なからず存在すると思はれる。
 しかし、たとへ編集者からの強い要請があつたにせよ、そこまで大胆に提言したからには、山折氏の執筆の動機がどの辺にあるのかが強く疑はれるだらう。つまり常識的に考へて、皇太子御自身に「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故がある」場合にのみ皇位継承順位の変更が認められる、と『皇室典範』は規定してゐるのであり、妃殿下のご体調回復の為の退位などは全くこれに該当しないから、山折提言の実現性がゼロであることは明々白々だからである。
 そのことが分かつていて敢へて自説を発表したいといふことは、皇室の現状を憂へる国民世論に訴へて、その盛り上がりによつて現状を改変しようとの意図があつたに違ひない。だがこの提言にたとひ多数の国民が賛成して、国会や内閣などの政界、マスコミ界、学界などを動かしたと仮定しても、それとは逆に、一国民の分際で皇室の将来を変革しようとするのは不謹慎だとして、提言に猛反撥する国民の数もそれに劣らず多くなることは、山折氏ほどの人に読めない筈はないだらう。そしてその結果が、皇位継承論と同じく、国民の良識派を二分する激しい争ひになるだらうことは容易に想像がつく。そして結局は皇太子殿下・妃殿下のみならず、天皇・皇后両陛下の御心を悩ますことになる。
 山折氏が本気で皇室の安寧を願つてゐるのなら、その様な大混乱を避けるために、宮内庁を通じてソツと皇太子殿下にご忠言されるべきであつた。これまでも八木秀次氏や西尾幹二氏が雑誌や書物を通して、皇太子の離婚を勧める言説を発表してきたが、それと同様、不可能な事あり得ない事を公言するのは自己顕示の為か、それとも皇室の“重み”に無理解で、国民の多数の意思を結集した運動によつて皇室のあり方を変更できるとの思ひ上りに由来するのではないか?いづれにしろ皇室の尊厳を軽視する「日本国憲法」の精神に毒されてゐると言はねばなるまい。

 §、必要な国民の熱誠

 西尾幹二氏は近年、皇室のあり様に対する良識派国民の態度には二通りあることを指摘してゐる。「皇室観については、現在も二軸の揺れがあります。ひたすら皇室を仰ぎ奉つてさへいればよいといふ思想と、我々ももう少し能動的に皇室について言ふべきことを言はなければならないといふ思想の二つです」(「国体と文明」拓殖大学平成二十三年度公開講座)。換言すれば、一つは皇室の現状をそのまゝ肯定する態度、もう一つは皇室によかれかしとの思ひで提言する姿勢である。そして無論、山折、八木、西尾氏らは後者に属する人々だといふことになる。次期天皇を皇太子ではなく秋篠宮にといふ運動で署名活動まで行なふ人がゐると仄聞するが、それも同類といふことになる。
 この二つの皇室観の中、前者について西尾氏は「仰ぎ奉つてさへゐればよいといふ思想」と低く見て侮つた表現をしているが、それは天皇を現人神として仰ぎ奉つた戦前の例を頭に浮かべてゐるのであらうが、戦後世代の日本人、つまり七十歳以下の人々でさういふ認識をする人は現在稀であらう。そもそも戦後の教育で「現人神」といふ感覚は全く教へられてゐない。
 たゞ、ごく少数ではあるが、皇室の現状を肯定する人々の中にも、真に見る眼を持つ人は単に現人神として仰ぎ奉るだけではなく、天皇の背後で働き給ふ神、つまり天照大神を礼拝し、そのことによつて天皇を中心とする皇族方の弥栄、安寧、健康、幸福が実現するやうに祈願してゐる。このやうな人々は、各神社の神職だけに留まらず、一般国民の中にもわづかながら存在するのではないか?
 そしてこの天照大神への信仰と皇室への祈りがなければ、天皇を中心として国民が団結してきた日本の国柄は崩壊の道をたどるほかないだらう。
 国民のこの祈りの力が結集されゝば、天皇を初め皇族方の力量が益々発揮されることは、精神科学、心の創化作用に明かるい人なら容易に了解するだらう。皇室の現状への冷たい批判ではなく、あたゝかい熱望・誠意こそが好ましい姿を顕現させる原動力になるのである。
(「きづな」平成25年4月号より)

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