発言集団「きづな」

07/18/2016

日本人にとつて天皇とは 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 8:49 AM

 日本人にとつて天皇とは何であるか?―――これは、かなりの難問である。先日のNHKの世論調査によれば、天皇を尊敬してゐるとする者が全体の約3割であつた由であるが、私の日頃の感触では、日本人の半数以上が天皇に敬意を抱いてゐるやうだ。あとは無関心派が3割程度、天皇を強く尊崇する者と、逆に天皇制を廃止すべきだと考へる者が、それぞれ、一割程度であらうか?
 周知のやうに昭和20年迄は、明治憲法下で「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳はれてをり、学校でも「教育勅語」が読まれていた為、少なくとも建前上では日本国民は天皇を敬ひ尊崇すべきだとされてゐた。しかし、それは国策として歴代の政権から国民に強制されてきた面が強く、軍人など支配層の間では天皇を「天ちゃん」、皇后を「おふくろ」、皇太子を「せがれ」などと称してゐた例もあり、本心・本音で皇室に尊敬の念を抱いてゐた者がどれ程存在したのか定かではない。
 また、天皇を統治の総攬者として政治に関与する祭政一致の政治制度を、どれだけの数の学者・思想家・論客たちが肯定してゐたかを振り返ると、皇室制度も盤石のものとは言へないものがあつた。福沢諭吉の『帝室論』や『尊王論』では、天皇が政治に関与しない体制を理想としてゐたし、北一輝の『国体論及び純正社会主義』や『日本改造法案』にしても、その天皇を戴く社会主義では天皇を権力の座から外すことを指向してをり、両者のいづれも「大日本帝国」体制を批判するものであつた。福沢や北は戦後の「日本国憲法」下での象徴天皇制を先取りしてゐたと言へよう。
 大正・昭和前期の憲法学者の間でも、同じ東京大学の教授である上杉慎吉の「天皇主権説」と美濃部達吉の「天皇機関説」との間では、天皇の政治への関与の仕方が180度異なるものがあり、やがて激しい政治的対立を生み出した。昭和前期といふわが国が国際社会から強い外圧を受ける危機的状況に追ひ込まれた折には、強い求心的団結を必要とするため、「天皇主権説」を支持する風潮が政界・軍部・思想界で強まり、シナ事変・大東亜戦争の時期には、天皇を絶対とする思想や信仰が広まつて行く。ことに大東亜戦争では、国の為に散華し玉砕せざるを得ない兵士が急増し、その心のよりどころは「天皇信仰」であり、“おほきみ”の為にかけがへのない生命を捧げた若者たちの最期の声は「天皇陛下万歳!」となつた。
 やがて武運つたなく敗戦に追ひ込まれたわが国に対する占領軍の日本弱体化政策の最大の狙ひは、日本人の魂を抜くことであり、天皇を現人神として仰ぐ日本人の「天皇信仰」を破壊することであつたが、それを叩き潰す決め手が、昭和21年元旦の「新日本建設ノ詔書」、いはゆる「人間宣言」である。
 その中の文言、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有スト架空ナル観念ニ其くモノニモ非ズ」に、日本国民の大半は茫然自失し、虚脱状態となつた。強権力下にあつたとはいへ、まさか天皇陛下ご自身が日本人の魂のより所であつた神格を否定されるとは、国民は夢想だにしてゐなかつたのである。
 だが、獄中から解放され、海外から帰国した共産主義者たちにとつては、まさに好機到来とばかりその夢の実現に邁進した。マルクス主義は君主制を認めない。明治時代の幸徳秋水らの「大逆事件」などに見られたやうに天皇制打倒が彼らの至上命令なのであり、大正12年の「虎の門事件」など摂政の宮暗殺を目論むテロ事件も発生した。世界の赤化を目指すコミンテルンの指令も、昭和2年(1927)には君主制の廃止を、そして昭和7年(1932)の「32年テーゼ」では天皇制廃止を、明言してゐて、時の加藤高明内閣は大正14年の「治安維持法」によつてこれに対処したのである。
 戦後、マッカーサが天皇護持を決意して「東京裁判」への出廷も拒否しはしたが、占領時代と昭和27年4月の独立後の数年間、国民世論としては天皇制の危機の時代に入り、昭和35年の第一次安保改定時から十年後の第二次安保改定の時期までは、日本は文字通り革命勢力に牛耳られた。ソ連のコミンフォルムの工作に加へて、中華人民共和国からも「天皇はアジア人民の血のしたゝる首狩人」などの悪罵が投げつけられ、その指導者たちは日本の革命勢力に有形無形の支援を行なつた。

 この危機の時代にあつて、日本を守護する愛国陣営に属する先覚者たちは、全力を傾けて天皇護持と革命阻止の為に起ち上つたが、その一人に三島由紀夫がゐた。三島の叫びは、天皇の「人間宣言」への拒否反撥であり、『英霊の声』の中で二・二六事件に決起して処刑された兵士や、大東亜戦争で天皇を神と信じて散華した兵士たちの亡霊に「などてすめろぎは人間となり給ひし」と言はせ、日本国民に衝撃を与へた。三島にとつて天皇は神でなければならないのであり、全霊をかけて昭和天皇に諫言する形をとつて日本国民の深層意識に訴へかけたのである。そして昭和45年11月25日の市ケ谷台での自決は、自らの諫言への責任を取つた行為と言へる。「七生報国」の鉢巻きをしめた三島は、皇居に向つて正座し、「天皇陛下萬歳!」を唱へて自裁した。「散るをいとふ世にも人に先きがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」が二つの辞世の一つであつた。
 その三十余年前、二・二六事件の首謀者として処刑された北一輝は「若殿に兜とられて負け戦」(若殿は昭和天皇、兜は軍隊)の一句を残し、「天皇陛下萬歳はやめにしておく」と述べて刑に処せられた。
 北一輝は「天皇のための国民」といふ明治憲法下のあり方を激しく批判し、「国民の為の天皇」を主張したが、今や平成の御世にあつて、まさに今上陛下は先の大戦で命を捧げた英霊たちの鎮魂・慰霊の為に半生を捧げられ、震災や風水害などの犠牲となつた人々やその遺族に思ひを寄せ続けることを使命とされてきた。「国民の為の天皇」に徹してゐるお姿が拝されるのであり、同時に明治天皇が渙発された「教育勅語」に掲げられた徳目を黙々と実践される大菩薩の英姿がそこに在すのである。

(「きづな」平成26年7月号より)

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