発言集団「きづな」

10/24/2014

天皇と政治(続)  「発言集団」代表・中島英迪

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 天皇の政治的位置づけの話となれば、数々の疑問や懸念が提出されるだらう。そのいくつかを列挙すれば次のやうになる。
 イ、「また天皇か?古めかしい。」「いまどき天皇を持ち出す復古調、逆コースはご免だ。」「天皇絶対主義の狂信で、再び失敗を繰り返してはならない。」
 ロ、天皇制は民主主義に反する。君主制と民主制は相容れず、日本人が尊い犠牲を払つてかち取つた今の民主主義を放棄すべきではない。
 ハ、そもそも天皇に政治を行なふ能力があるとは思へない。政治とは極めて複雑な営みであり、政治力を身につけるのは容易でない。
 ニ、天皇による政治が失敗した時、誰が責任を取るのか?途中でダメだと解つても方向転換できず、先の大戦のやうに破滅にまで進んでしまふ。
 ホ、天皇の取り巻き勢力が天皇を利用して自分達の利権を得、甘い汁を吸はうとする独裁・専制に流れる危険は極めて大きい。

 イ、は歴史認識の問題である。このやうな意見の持ち主は今日のわが国では少なくない。アメリカの占領政策と、共産党、社会党、そして日教組などもそのやうな偏向的な歴史観を持つてゐて、いはゆる「朝日・岩波・NHK」の思想を受け継いでゐる人たちである。
 結論のみ記せば、わが国が無謀な侵略戦争を仕掛けた事実はない。天皇を頂点とする戦前の体制が諸悪の元凶であるといふ認識は誤つてゐる。天皇を元首として政治の指導者に位置づけることこそが、日本の伝統にふさはしい。

 ロ、君主制と民主制とが対立、矛盾するといふ解釈は、政治学のイロハに無知だといふことを示してゐる。「君」と「民」との対立だと思つてゐるのだらうが、「民主制」の対立概念は「独裁制」である。国民の衆知を結集して政治を行ふのが「民主制」、一人の独裁者に全権を托すのが「独裁制」である。一方「君主制」の対立概念は「共和制」であり、それは君主が存在するか否かの違ひである。「共和制」は国王が不在なので大統領または首相が代替的な役割を担ふことになる。
 さて民主制の弱点は、国民の各層が自分たちの利益や主義主張を押し立てて、収拾がつかなくなりやすいことである。最後は多数決といつても腐敗や権謀術数が横行し、物事が遅々として進まなくなり、衆愚政治と化しやすい。イタリアなどがその典型だが、わが国の政党政治もこのやうな歴史を持つ。その点、中国や北朝鮮、そしてロシアなども含めた独裁制の方が即決即断で、事態への対処の点ではるかに効率的である。たゞ独裁制は一旦判断を間違ふと破滅に迄走つてしまふといふ危険があるのは周知の通りである。
 君主制で民主主義の国は、歴史的に見て政情が安定するのは周知の事実だが、イギリス、オランダ、スウェーデン、デンマークのやうな王制の国家も、戦後の日本と同様、君主が直接に政治を行なふことはない。この点で民主制の弊害を抑制するための大きな働きはできてゐない。
 そこで、利益代表の闘争の場となる民主主義政治を補完する方策が、公平無私の天皇による政治参加である。この点、戦前の「大日本帝国憲法」体制は、必ずしも理想とは言へない。天皇が政治に関与されたこともあるが、多くの場合は傍観的、形式的に臣下の結論を支持されてゐたに過ぎない。又、政治参加についても、旧憲法に一工夫、二工夫あるべきだ。

 ハ、はもつともな見解であるが、天皇は政治の全貌に通暁するには及ばない。決断の必要な問題、結論が分かれて判断が必要な時、大所高所から指導されゝばよいのである。

 ニ、も確かに天皇の独裁政治が行なはれた時には、失敗の問題が出てくる。だが、天皇参加の民主政治なら、たとひ失敗しても天皇に責任の及ばない「無答責」の制度を工夫することができる。途中での方向転換も十分に可能となる。
 先の大戦の場合は、米・英・露・支など強力な国家から騙され、追ひ込まれたのだから、わが国は一丸となつて死に物狂ひで戦ふほかないといふ特殊事情があつた。

 ホ、も大事な視点で、日本人には江戸幕末から「玉を奪ふ」といふ天皇利用の悪習があるため、たしかに警戒を要する。しかし、絶対にそれを繰り返さないやうな安全装置を施することはできるのではないか?

 ではこれらの懸念を払拭できる天皇政治が存在するのであらうか?然り、それこそが「君民共治」の理想体制なのだ。
(「きづな」平成25年11月号)

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