発言集団「きづな」

07/18/2016

「現人神」とは何か? 「発言集団」代表・中島英迪

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 天皇を他の国民と同列の単なる一人の人間と見れば、「天皇を中心とする神の国・日本」の意義は半減するだらう。つまり日本国憲法下の象徴天皇では、偶々世襲によつて生まれてきた天皇の子孫が皇太子となり、先帝の崩御と共に皇位を継承して天皇となるに過ぎないから、特別に天皇を神聖視する根拠がなくなる。無論、尊い家柄に生まれた「やんごとなき人」といふ意味では国民の敬意を得ることができるかも知れないが、もし天皇になる人に知性や理性が不足してゐたり、徳行が伴つてゐない場合には、人心が離れて行き、そもそも天皇制度など不要だと人々は考へ始めるであらう。
 それでも天皇が神祀りを欠かさず、皇祖・天照大神や皇宗(神武天皇以降の歴代天皇)を祭る伝統を継承してゐれば、宗教的権威が備はり、国民の尊崇を得ることができよう。しかし、仮に神祀りを疎かにするやうな天皇が出現したり、いはゆる帝王学の不足や生まれながらの資質の欠如などのために凡そ天皇らしからぬ行動を取る人が皇位につけば、日本の国体は崩壊し、天皇抜きの日本が実現するのであらうか?

 シナの歴史を見ればそれが常態で、不徳の皇帝に対しては、有徳の士が天の命を受けてこれを打倒し革命するといふ「易姓革命」の思想の下に、国家の興亡が続いてきた。もしこの中国に倣つてゐれば、わが国も次々と王朝が交替してゐたであらう。
 だが日本の国体思想においては、天皇なる人の性格、行動、ひととなり等の条件に左右されることなく皇位が守られ、それ故に「万世一系」が維持されてきたのである。つまり、わが国では天皇になる方がどのやうであつても「現人神」(「現御神」)として仰ぎ礼拝するといふ思想が存在した。
 すなはち、国民の側に尊皇の思想が連綿として受け継がれてきたのであり、国体を支へてきたのは国民の総意だつたのである。こゝでいふ総意とは、国民全員といふことではなく国民の多数といふことでもない。いつの時代でも国民の「一般意志」が天皇を日本人の仰ぐべき尊い存在だと考へてきたのである。無論、時代によつては大多数の国民が天皇の存在を意識しないこともあつたが、その場合でも思想家や為政者の多くは、その意識を失つてはゐない。しかも当の歴代天皇が、自ら日本国の中核だといふ自覚を持ち続けてゐた。これは実に不思議なことであり、奇跡的とも言へるであらう。

 では、この日本民族の尊皇の伝統を平成時代の私共は、どう受けとめるべきなのか? 場合分けとしては、一、継承すべき、二、捨てるべき、三、自然に任せるべき、の三通りが考へられ、個々の国民としても三様の一つを取ることにならう。もつとも個人として「自然に任せるべき」といふ選択肢は全体からすれば「無関心でゐる」といふことにならうが、筆者としては本稿を記してゐる事実そのものが関心を持つてゐることを示すから、「継承すべきか」、「捨てるべきか」の二者択一といふことになる。
 そして結論としては、断然尊皇の伝統を継承すべきだと考へてゐる。無論その場合、どういふ意味で天皇が尊いのかを明らかにしなければならないが、それは又、どういふ意味で天皇が現人神なのかを明確にしなければならないとも言へるだらう。

 まづ、天皇がどういふ意味で尊いのかといふ点では、天照大神はじめ日本の神々と直結してゐるから、といふことが挙げられよう。こゝで直結とは、天照大神の末裔であるとの国民的信仰に裏づけられてゐると共に、天照大神の神霊を受け継ぎ体現してゐる方だとの天皇信仰に基づいてゐる。昭和二十一年元旦の「新日本建設の詔書」で昭和天皇が否定された「神格」であり、古来の言葉では「現御神」、俗に言う「現人神」である。
天皇は皇祖・天照大神を祭祀されるだけではなく、自ら皇祖の神霊を受け継ぎ、神にして人、人にして神の自覚をもつて日本国と日本国民の安寧と世界の平和を祈念される存在であり、人格と共に神格も備えてをられるわけである。
 そしてこの場合の「神」とは一神教でいふ絶対者でないのはもちろん、「上御一人」のやうに上位にある「カミ」や、本居宣長流の「世にすぐれたもの」、「威力ある存在」、あるいは柿本人麻呂流の「大君は神にしませば…」の「カミ」とも異なる。また、和気清麻呂や菅原道真のやうに人間であつた者で優れた働きのある偉人を「神」と称する例や、国家護持の為に殉じた英霊の「神」とも違つてゐる。天皇は故人ではなく、文字通り生身(なまみ)の体を持つ「生き神」なのである。

 天皇が「現人神」である所以は、絶対神の顕現である天上の「天照大神」(相対神)が天皇として地上に姿を現はされた存在であるところにある。太陽が万物に光を投げかけ生命を与へてゐるやうに、地上の万人に恵福をもたらし平安を与へるのが天皇なるものの役割である。したがつて天皇は日本国家といふ政治的範疇を超えて全人類的使命を担ってゐる。つまり太陽がさうであるやうに、天皇は日本民族、日本国民にとつて尊いだけではなく、全世界にとつても至宝の価値を持つてゐる。
 このやうな天皇信仰の威力は、現実の天皇が如何にあれ、国民が期待する崇高な天皇像を信じ、礼拝するところから発するものであり、国民の信仰が強いほど、感応の力によりそれにふさはしい天皇が現出することになる。現実に「陛下は神聖な御存在にまします」と考へる多数の国民に取り巻かれゝば、その言動が神聖になることは、我々の日常生活の卑近な例を見る迄もなく、誰にも分かり易い道理であらう。

(「きづな」平成26年9月号)

現人神といふこと 「発言集団」代表・中島英迪

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 昭和20年の敗戦後、日本弱体化政策を推進したGHQは日本人の魂とも言ふべき「天皇」の権威を剥奪することを目指し、日本政府に対して二点を否定するやう求めてきた。
 その一は、天皇が神の子孫であること、その二は、天皇が神であることである。この要請に対して昭和天皇は、自分が神の子孫であることは日本国民の信念になつてゐるから、これを否定すれば天皇の存在そのものが、成立しなくなるとして、強く拒否された。一方、天皇が神であることに関しては、自分は身体の構造からして普通の人間と同じであるから神ではない、と同意して「神格否定」の人間宣言が出されることになつた。
 昭和21年元旦に発表された「新日本建設に関する詔書」に、「天皇ヲ以テ現御神トシ……架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」とある通りである。こゝに「現御神」とあるのは歴史的に肯定されてきた言葉で、世間一般で言ふ「現人神」のことである。
 後に昭和天皇は記者会見で、この「詔書」のことを問はれて、「五箇条の御誓文」を掲げることが趣意で、神格云々は「二の問題」であつた旨御応へになつた。たしかに「御誓文」は民主主義なるものを押しつけてきた米国に対して、わが国にも早くからそれが存在してゐる、と占領軍に抵抗を示されたのであり、元首の気概と日本人の誇りの結実したものであつた。しかし、占領軍にとつては神格否定が「一の問題」であつたことに間違ひない。

 戦前、戦中に天皇を「現人神」と信じてゐた国民にとつては、天皇の御姿を排すること自体が畏れ多いことであり、近くに来られても御顔を見れば眼がつぶれると本気で信じてゐた人々も少なくなかつた。しかも天皇を神と信じたればこそ、神を御守りするために戦つた日本兵は強かつたのであり、死に臨んでも「天皇陛下万歳!」を叫んで喜んで散華した兵が多かつた。日本弱体化の為には、この不合理な「天皇信仰」を叩き潰し日本人の魂を抜き取ることこそが、最重要事だとGHQは考へたのであつた。
 そしてその企みは功を奏して、「反天皇」の思想は次第に広がりを見せ、70年後の今日まで及んでゐる。平成の現代にあつて天皇を神と信じてゐる人は暁天の星の如くであらう。

 さて、昭和天皇が否定を拒否された「神の子孫」について若干考察を加へよう。言ふ迄もなく、わが国の成立は『日本書紀』に記されてゐるやうに、皇祖・天照大神の「御神勅」に発してをり、皇孫ニニギノミコトに対し、「アマツヒツギノサカエマサンコト、アメツチトキハマリナカルベシ」(原文漢字)と、皇室の永遠の繁栄を宣言され、五代の子孫に当たる神武天皇による「六合を兼ねて都を開き、八紘を蔽ひて宇と為さむ」との「建国の詔勅」によつて肇国となり、連綿として今上陛下まで125代を数へる。明治憲法の第一条で高らかに謳はれてゐるやうに、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」であり、一系の天子を戴く国柄が日本なのである。
 だが、この日本国民の「万世一系」の信条は、「事実」といふより「信仰」に基いてゐることは、今日の日本人なら誰もが了解してゐる。創業の天皇である神武天皇は『古事記』『日本書紀』では、その志と辛苦が描かれてゐるが、神話と伝説の色合ひが濃く、歴史学的に事実や実在が証明されてゐるわけではない。皇族である三笠宮御自身が昭和三十年代に歴史学者として「非実在」と述べられたし、御子息の寛仁親王も平成17年「とどのおしゃべり」の中で、「神話時代の神武天皇」と明記されてゐる。
 さらに第二代・綏靖天皇から第九代・開化天皇までは『記紀』にもその事跡が記されてをらず「欠史八代」と言はれてきた。第十代・崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」(初代天皇)と呼ばれ、歴史学的に実在の可能性が大とみられてゐるが、第十一代・垂仁天皇以降、景行、成務、仲哀天皇迄は伝説に基くもので、非実在と見る学者が多い。ことに第十四代・仲哀天皇は、父親が日本武尊といふ伝説の英雄であり、『日本書紀』によれば日本武尊の死後36年経つて皇子の仲哀天皇が誕生してゐるなど父子関係が疑はれ、他にも不自然な点が多い。
 しかし、日本人は、その神話や伝説を重んじ、その存在を信じて来たのであり、これを否定すれば「万世一系」は成り立たず、天皇存在の正当性も崩れてしまふ。昭和天皇が天照大神の子孫否定を拒否されたのも当然であり、これを受け入れゝば、天皇に於て結束してゐた日本国民がバラバラの烏合の衆となり果てたに違ひない。
 では、「神格否定」についてはどうであらう。「新日本建設に関する詔書」は一般に神格否定の人間宣言と受け取られてきたが、一説に、その文言をよく読めば、必ずしも「現御神」そのものを否定したのではなく、「天皇を現御神として、日本民族を他に優越し世界を支配すべき運命にあるとの架空の観念」を否定しているのだとの解釈もなされている。確かにそのやうな玉虫色の文章にはなつてゐるが、それは後の時代になつての解釈であり、昭和21年当時、国の内外でそのやうに受けとめられたといふ事実はない。
 天皇は現人神から単なる人間となつたのであり、直後に成立した「日本国憲法」前文でも、「大日本帝国憲法」冒頭にある「告分」で高らかに宣言されたやうな「神格」は全く付与されてゐない。三島由紀夫の「などてすめろぎは人間となり給ひし」といふ疑問は、我々に突きつけられた究極の課題なのである。

(「きづな」平成26年8月号より)

日本人にとつて天皇とは 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 8:49 AM

 日本人にとつて天皇とは何であるか?―――これは、かなりの難問である。先日のNHKの世論調査によれば、天皇を尊敬してゐるとする者が全体の約3割であつた由であるが、私の日頃の感触では、日本人の半数以上が天皇に敬意を抱いてゐるやうだ。あとは無関心派が3割程度、天皇を強く尊崇する者と、逆に天皇制を廃止すべきだと考へる者が、それぞれ、一割程度であらうか?
 周知のやうに昭和20年迄は、明治憲法下で「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳はれてをり、学校でも「教育勅語」が読まれていた為、少なくとも建前上では日本国民は天皇を敬ひ尊崇すべきだとされてゐた。しかし、それは国策として歴代の政権から国民に強制されてきた面が強く、軍人など支配層の間では天皇を「天ちゃん」、皇后を「おふくろ」、皇太子を「せがれ」などと称してゐた例もあり、本心・本音で皇室に尊敬の念を抱いてゐた者がどれ程存在したのか定かではない。
 また、天皇を統治の総攬者として政治に関与する祭政一致の政治制度を、どれだけの数の学者・思想家・論客たちが肯定してゐたかを振り返ると、皇室制度も盤石のものとは言へないものがあつた。福沢諭吉の『帝室論』や『尊王論』では、天皇が政治に関与しない体制を理想としてゐたし、北一輝の『国体論及び純正社会主義』や『日本改造法案』にしても、その天皇を戴く社会主義では天皇を権力の座から外すことを指向してをり、両者のいづれも「大日本帝国」体制を批判するものであつた。福沢や北は戦後の「日本国憲法」下での象徴天皇制を先取りしてゐたと言へよう。
 大正・昭和前期の憲法学者の間でも、同じ東京大学の教授である上杉慎吉の「天皇主権説」と美濃部達吉の「天皇機関説」との間では、天皇の政治への関与の仕方が180度異なるものがあり、やがて激しい政治的対立を生み出した。昭和前期といふわが国が国際社会から強い外圧を受ける危機的状況に追ひ込まれた折には、強い求心的団結を必要とするため、「天皇主権説」を支持する風潮が政界・軍部・思想界で強まり、シナ事変・大東亜戦争の時期には、天皇を絶対とする思想や信仰が広まつて行く。ことに大東亜戦争では、国の為に散華し玉砕せざるを得ない兵士が急増し、その心のよりどころは「天皇信仰」であり、“おほきみ”の為にかけがへのない生命を捧げた若者たちの最期の声は「天皇陛下万歳!」となつた。
 やがて武運つたなく敗戦に追ひ込まれたわが国に対する占領軍の日本弱体化政策の最大の狙ひは、日本人の魂を抜くことであり、天皇を現人神として仰ぐ日本人の「天皇信仰」を破壊することであつたが、それを叩き潰す決め手が、昭和21年元旦の「新日本建設ノ詔書」、いはゆる「人間宣言」である。
 その中の文言、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有スト架空ナル観念ニ其くモノニモ非ズ」に、日本国民の大半は茫然自失し、虚脱状態となつた。強権力下にあつたとはいへ、まさか天皇陛下ご自身が日本人の魂のより所であつた神格を否定されるとは、国民は夢想だにしてゐなかつたのである。
 だが、獄中から解放され、海外から帰国した共産主義者たちにとつては、まさに好機到来とばかりその夢の実現に邁進した。マルクス主義は君主制を認めない。明治時代の幸徳秋水らの「大逆事件」などに見られたやうに天皇制打倒が彼らの至上命令なのであり、大正12年の「虎の門事件」など摂政の宮暗殺を目論むテロ事件も発生した。世界の赤化を目指すコミンテルンの指令も、昭和2年(1927)には君主制の廃止を、そして昭和7年(1932)の「32年テーゼ」では天皇制廃止を、明言してゐて、時の加藤高明内閣は大正14年の「治安維持法」によつてこれに対処したのである。
 戦後、マッカーサが天皇護持を決意して「東京裁判」への出廷も拒否しはしたが、占領時代と昭和27年4月の独立後の数年間、国民世論としては天皇制の危機の時代に入り、昭和35年の第一次安保改定時から十年後の第二次安保改定の時期までは、日本は文字通り革命勢力に牛耳られた。ソ連のコミンフォルムの工作に加へて、中華人民共和国からも「天皇はアジア人民の血のしたゝる首狩人」などの悪罵が投げつけられ、その指導者たちは日本の革命勢力に有形無形の支援を行なつた。

 この危機の時代にあつて、日本を守護する愛国陣営に属する先覚者たちは、全力を傾けて天皇護持と革命阻止の為に起ち上つたが、その一人に三島由紀夫がゐた。三島の叫びは、天皇の「人間宣言」への拒否反撥であり、『英霊の声』の中で二・二六事件に決起して処刑された兵士や、大東亜戦争で天皇を神と信じて散華した兵士たちの亡霊に「などてすめろぎは人間となり給ひし」と言はせ、日本国民に衝撃を与へた。三島にとつて天皇は神でなければならないのであり、全霊をかけて昭和天皇に諫言する形をとつて日本国民の深層意識に訴へかけたのである。そして昭和45年11月25日の市ケ谷台での自決は、自らの諫言への責任を取つた行為と言へる。「七生報国」の鉢巻きをしめた三島は、皇居に向つて正座し、「天皇陛下萬歳!」を唱へて自裁した。「散るをいとふ世にも人に先きがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」が二つの辞世の一つであつた。
 その三十余年前、二・二六事件の首謀者として処刑された北一輝は「若殿に兜とられて負け戦」(若殿は昭和天皇、兜は軍隊)の一句を残し、「天皇陛下萬歳はやめにしておく」と述べて刑に処せられた。
 北一輝は「天皇のための国民」といふ明治憲法下のあり方を激しく批判し、「国民の為の天皇」を主張したが、今や平成の御世にあつて、まさに今上陛下は先の大戦で命を捧げた英霊たちの鎮魂・慰霊の為に半生を捧げられ、震災や風水害などの犠牲となつた人々やその遺族に思ひを寄せ続けることを使命とされてきた。「国民の為の天皇」に徹してゐるお姿が拝されるのであり、同時に明治天皇が渙発された「教育勅語」に掲げられた徳目を黙々と実践される大菩薩の英姿がそこに在すのである。

(「きづな」平成26年7月号より)

06/02/2015

“玉を奪ふ”といふこと 「発言集団」代表・中島英迪

Filed under: 未分類 — admin @ 10:12 AM

 幕末から明治維新にかけて、政権を確保する為には「玉を奪ふ」ことが必須だ、との思想が旺んになつた。「玉」とは無論「天皇」の意味であり、天皇を奉戴し天皇を担ぐことが支配の正統性を得るといふ考へ方である。これは幕末に限らず、有史以来のわが国の統治の基本であり、その典型は南北朝時代である。そこでは、後醍醐天皇に叛旗を翻したまゝでは、到底国家を統轄できないため、足利氏は北朝(光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の五帝)を擁立し、南朝(後醍醐・後村上・長慶・後亀山の四帝)に対抗した。
 さて、徳川倒幕を実現するためには、孝明天皇を戴くことが至上命令となるから、長州は御所を警護する徳川幕府側と戦つて天皇を奪取しようと「禁門の変」(蛤御門の変)を起した。会津藩、桑名藩、新撰組など守る側からすれば、長州は天皇に歯向ふ「朝敵」であるから、これを撃退したのは当然で、第一次・第二次長州征伐も「逆賊」の殲滅を目指す戦ひであつた。
 だが、やがて薩長連合が成り、孝明天皇急逝のあと公家の岩倉具視ら倒幕派は若い明治天皇を奉戴して、戊申戦争を始めた。薩長側は「錦の御旗」を作り、十五代将軍・徳川慶喜や会津・桑名の軍勢を「朝敵」として、鳥羽・伏見の戦ひを展開したのである。「賊軍」とされた幕府側に勝ち目は無くなつたのであり、朝廷に弓を引くことを潔しとしない慶喜は江戸に敗走し、「官軍」の長州勢らは、「賊軍」となつた会津勢らに凄惨な復讐の戦ひを挑んだ。

 昭和前期の軍部によるクーデターも、その多くは天皇の為に蹶起した。5・15事件や2・26事件でも“君側の奸”を排除することを目的としてをり、首相が「話せば分かる」と言つても青年将校たちは「問答無用!」と拒否した。自己に大義があるとして、敵対する者を朝敵として戦ふ姿勢は日本の歴史上、往々見られるので、我々日本人はよほど心しないと同じことを繰り返す恐れがある。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教が、自分達の信じる絶対神に歯向ふ者たちを悪魔の手先と位置づけて冷酷無比な殺し方をしてきたのと酷似した不寛容の修羅の世界が日本でも展開された。

 十年ほど前から盛んになつた皇位継承論でも、男系主義者たちの中には男系絶対論を唱へて女系容認論者を激しく攻撃し、「朝敵として抹殺すべし」との過激な煽動をする者がゐて、今もなほ、そこから脱し得てゐない人々も少なくない。だが、日本の皇室尊崇の理は一神教とは全く異質で、多様な意見を包容する「和」の原理を尊ぶ思想である。天皇は「現人神」であるが、「絶対者」なのではない。「天皇絶対論」は排他的で危険を伴ふ。

 さて、憲法改正問題では「朝日新聞」を中心としたいはゆる革新勢力が、護憲のために天皇を担ぎ始めてゐる。まさに天皇の政治利用なのだが、陛下は戦後日本の平和主義、民主主義、そして人権や平和を完全に肯定してゐるから自分たちの味方だ、といふ言説を展開する。無論彼らの本心は天皇制廃絶なのだが、それに到る有力な手段として「玉を奪ふ」ことを目指す訳である。
 周知のやうに「朝日」は何十年も前から、天皇や皇族の言動に敬語を使ふことを止め、「毎日新聞」も時にこれに倣つてきた。このやうな天皇を特別の尊敬すべき存在だと認めない勢力が、保守派に対して「君たちの担いでゐる天皇は、戦後民主主義を肯定し、憲法も擁護してゐて改正に反対なのだよ」と言つて、戦ひを挑んできてゐるのである。
 これは変則的な形の「玉を奪ふ」行為なのであり、良識派はそのやうな議論に対しては、これをたしなめて「天皇陛下を思想利用するな!」と糾弾する必要がある。さうでないと保守派・愛好者・天皇敬愛者は「朝敵」の立場に追ひやられかねないであらう。

 言ふまでもなく「玉を奪ふ」とは、「虎の威を借る狐」にも似た天皇利用行為であつて、自己の主張を通すための邪な策謀である。
 皇位継承論に於いても、男系維持派であれ女系容認派であれ、陛下が自分と同意見だと述べて自己の主張を通さうとするのは、天皇の思想利用と言つてよいだらう。そのやうな「王を奪つて」の立論は邪道なのであり、如何なる立場であつても「天皇の御意向」を持ち出して自説を補強しないやうにしなければなるまい。
 さうでなくては天皇絶対主義に結びついてしまひ、冷静な議論から逸脱することになる。たとひ陛下がどのやうに考へてをられやうと、臣下の自分としては愚直にかく考へ、かく信じる、といふ態度をとるべきであらう。こゝから議論における「慎しみ」の姿勢が生まれるのである。
 憲法議論についても同様なのであり、陛下が憲法改正に賛成されようと反対されようと、それとは無関係に人は自分の信念、心情を吐露すべきである。「陛下は私と同様かふ考へてをられるに違ひない。だから私の説に従へ」といふ態度は傲慢なのである。
 したがつて、護憲派が天皇を利用しようとする姿勢を見せれば、それは厳しく批判されなければならないし、改憲派に同様の態度が見られゝば、やはりそれも否定されるべきである。
 「朝日新聞」などは、天皇を自分の味方だなどと考へるのは止めねばならない。陛下は国民の意見が別れてゐる問題の一方の側に立たれることはない。天皇は国民全体のためのご存在であり、特定の国民やその思想に共鳴されるお立場にはない。たとひ陛下が民主主義や平和や人権の大切さを指摘されたとしても、それは大所高所からのご指摘なのであり、「戦後民主主義」といふ狭隘なイデオロギーの肩を持たれてゐるわけではない。
 (「きづな」平成26年6月号より)

10/24/2014

憲法改正問題と天皇(続) 「発言集団」代表・中島英迪

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 内廷の「日本国憲法」に関するご発言に関して、皇室を崇敬する「保守派」から、二種の反応が出てゐる。
 一つは高森明勅氏(『週刊ポスト』3月14日号)で、両陛下や皇太子のご発言は憲法改正を急ぐ安倍政権への懸念を表明されたものと受け止め、次のやうに語つてゐる。
「皇室が憂慮されているのは、天皇の政治利用と、立憲主義を危うくする憲法改正論の2点だと思われます。」
 五輪招致活動参加の高円宮妃に宮内庁長官が強い難色を示したことに天皇陛下が誕生日会見で言及されたのは、政治利用への強い警戒感があるからだ、とする。
「また、安倍総理が進める憲法改正論議の中では、96条だけを実行して改正しようとか、最終的には国民が審判を下すのだから大丈夫、といつた議論がなされている。そのため、憲法の存在意義そのものを失いかねない事態になることをご心配されているのでしょう。私自身、憲法改正は必要だと思いますが、立憲主義の大切さを崩してしまうような改憲論には危機を感じます。」
 つまり、高森氏は改憲に賛成だが、立憲主義の大切さを崩すことを陛下が懸念されてゐるのだ、と解釈してゐる。だが、両陛下や皇太子殿下のご発言をそのやうに受取るのは相当の飛躍が必要で、かなり無理のある苦しい解釈ではないか。安倍内閣の96条改正論議が憲法の存在意義を失はせるとの見方は、一方的で乱暴な議論だらう。早い話が、内廷の憲法擁護発言は、改正反対論者から大喜びして政治利用されてゐるのではないか。

 もう一つは、八木秀次氏(『正論』5月号)の意見で、「憲法巡る両陛下ご発言公表への違和感」と題してゐる通り左翼・護憲派が持ち上げる五日市憲法草案を高く評価し「日本国憲法」の価値観を高く評価するご発言は、安倍内閣が進めようとしてゐる憲法改正への懸念の表明のやうに受け止められかねない、と八木氏は述べてゐる。
「なぜ、このタイミングなのか。デリケートな問題であることを踏まえない宮内庁に危うさを覚える。」
「憲法改正は対立のあるテーマだ。その一方の立場に立たれれば、もはや「国民統合の象徴」ではなくなってしまう。宮内庁のマネージメントはどうなっているのか。」
 こゝでは宮内庁に責任を求めてゐるのだが、八木氏はさらに進んで、両陛下が安倍内閣や自民党の憲法に関する見解を誤解されている、との仄聞を記す。つまり、「元首」の規定を象徴天皇の否定だと誤解されてゐるとの観測もあるとし、かう結んでいる。
「それにしても両陛下の誤解を正す側近はいないのか。逆に誤った情報をすすんでお伝えしている者がいるのでは、との疑念さえ湧いてくる。宮内庁への違和感と言ったのはそのような意味においてだ。」
 八木氏の主張の前半は、陛下を補佐する宮内庁への批判で、戦前の天皇崇拝者たちが言ってゐた「君側の奸」を除かうとすることに通じる、陛下の取り巻きへの非難である。そして後半は、陛下の誤解に言及してゐて、(正解か誤解かは論者の立場によつて異なるであらうが)こゝでは八木氏は、陛下が日本国憲法を順守し、改正に反対であることを認めてゐる。
 これは高森氏のやうに苦しまぎれの逃げの姿勢ではなく正面から受け止めてゐて、事の深刻さをよく理解してゐる誠実な態度といへよう。皇室崇敬者で憲法改正論者は今、大きな難題に直面してゐる。憲法を順守し、改正に反対といふお考へが、天皇・皇后両陛下や皇太子殿下の信念になつてゐる可能性は極めて大きいのではないか?だが皇室崇敬者は正面切つて反旗を翻す訳には行かないのである。
 この点、保守派の大御所と目されてきた渡部昇一氏(『正論』5月号「私が伝えたい天皇・皇室」)は、知つてか知らずか極めて暢気に構へてゐる。お得意の男系論を繰り返し、天皇と神社の「日本文明」に触れた後、「国体」は五回変わつたと論じる部分でかう語る。
 「日本を占領した連合国は、日本を直接統治せず間接統治しました。連合国といっても実質は米国ですが、間接統治だから、命令も直接、国民に下すのではなく一応、日本の法律という形式をとりました。その中の最も基本的な「占領政治基本法」ともいうべきものを「日本国憲法」と名付けさせたのです。だから今の憲法は、米国占領下であることを前提とした基本法です。(中略)要するに外国に日本人の安全と生存までを任せると書いてあるのです。本来そんな憲法があるはずがない。自主憲法ができれば、国体は六回目の変化を遂げることになるでしょう。」
 言ふまでもなく、これは天皇・皇后両陛下、皇太子殿下、つまり内廷の御気持ちを真つ向から否定する内容なのである。だが渡部氏は、さういふことに一切触れず、「占領政治基本法」なる現憲法を廃して自主憲法の成立を目指してゐる。高森、八木氏には苦悩の気配が濃厚だが、渡部氏は何の苦しみもなく、いつものやうに天真爛漫といふか春風駘蕩で、わが道を行く。

 昭和10年前後、美濃部達吉は「天皇機関説」の故に上杉慎吉らの「天皇主権説」を奉じる絶対主義勢力から攻撃されて、著書は発禁となり貴族院議員を辞することになつた。だが当時、昭和天皇は「美濃部の機関説でよいではないか」と仰つてゐた。いま自主憲法制定を主張する渡部昇一氏らに対して「現憲法でよいではないか」と今上陛下が仰つてゐればどうするか、といふ問題なのである。
 護憲派の中には天皇制反対論者もかなり多いと見てよいが、彼らが天皇を担いで「憲法擁護」を叫び、改憲派に対抗してくれば、改憲作業は難航する。
 高森、八木、渡部氏と同様、筆者も自主憲法制定が年来の主張である。その実現のためには、「憲法改正問題と天皇」の難問を乗り越える必要性を痛感する。
(「きづな」平成26年5月号より)

憲法改正問題と天皇 「発言集団」代表・中島英迪

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 日本は天皇を中心とする神の国である。したがつて国民が「敬神崇祖」の心を持ち、天皇陛下に「感謝報恩」のまごころを捧げることは、好ましい自然の情である。
 ところで、国体問題で最も難しいことは、天皇を尊崇する人の思想が、陛下のお考へと異なる時、しかも真つ向から逆で相反する時に、どうすれば良いのかといふ点である。
 例へば、平成十六年頃から旺んになつてきた皇位継承論争において、男系維持論と女系容認論とが対立してきたが、もし自分が男系維持論者だとして、陛下が女系容認の考へを持つてをられる場合、あるいは逆に自分が女系容認論者だとして、陛下が男系維持の考へを持つてをられる場合にどうするか、といふ難問である。
 その際、一般によく言はれてきたやうに、男系論者が「陛下も男系論者に決まつてゐる」とか、女系論者が「陛下は絶対女系論だ」などといつた主観的信念の話ではない。事実として自分の信念と、陛下のお考へが真逆である場合にどうするか、といふ問題なのである。

 この場合、我々の取り得る態度は、大きく三通りに分かれるであらう。
1)天皇の考へかどうか疑はしい。意図的、作為的に第三者が流した言説だらうから無視する。
2)陛下は、さうお考へかも知れないが、やはり自分は信念を貫く。
3)陛下の仰ることだから深い叡智に導かれてゐるに違ひないため、自分の考へを改める。
 さて、いま皇位継承論を例に挙げたが、本稿の主題は憲法改正論である。周知のやうに安倍政権は今国会で、集団的自衛権の行使を可能にすべく、解釈改憲を目指してゐるが、首相の最終目的は、憲法第96条の改正発議の要件を「3分の2」から「2分の1」に改正することである。まづこれを片付け、その後に個々の条項を改正しようと考へてゐる。

 このやうな政治的状況下で、今上陛下は近頃の会見で日本国憲法に言及された。昨年12月18日に、誕生日会見でかう仰つたのである。
「戦後、連合国軍の占領下にあつた日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作り、様々な改革を行つて今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために、当時の我が国の人々の払つた努力に対し深い感謝の気持ちを抱いてゐます。また、当時の知日派の米国人の努力も忘れてはならないことと思ひます。」
 このご発言について、何も改正に反対の趣意ではなく、たゞ憲法を尊重する気持ちをお述べになつたもので、即位の際「日本国憲法を守り」と仰つたのと同様、何事も法に基づいてとの遵法精神の大切さを表明されたに過ぎないと解する人もあるかも知れない。憲法には改正条項があるのだから、それも含めての尊重であつて、改正反対のご意見ではないといふわけである。
 それにしても「平和と民主主義を守るべき大切なものとして」とか、「我が国の人々の払つた努力に対し深い感謝の気持ち」や、「知日派の米国人の協力も忘れてはならない」の文言は、いはゆる護憲派を力づける響きがあり、日本国憲法を米軍の押しつけで正当性がないとする改憲論に与しないと受取ることができよう。

 しかも、皇后陛下も、昨年10月20日の誕生日にあたり発表された文章で、明治憲法公布前に民間で作られた「五日市憲法草案」にふれ、基本的人権の尊重や法の下の平等、教育の自由の保障、言論・信教の自由などが盛り込まれてゐたことに関して、「長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に育つていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と述べてをられる。基本的人権の尊重は日本国民の間にも存在してゐたとのご指摘であるが、これも日本国憲法を高く評価する護憲論者を励ます文章と解されるのではないか。
 そして、今年の2月21日、皇太子殿下も54歳の誕生日を前にして、皇室の活動と政治の関はりについて、次のやうに発言された。
「今日の日本は、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、現在、我が国は平和と繁栄を享受してをります。今後とも憲法を遵守する立場に立つて必要な助言を得ながら事に当たつていくことが大切だと考えてをります。」
 この皇太子会見について、皇太子誕生日の2月23日に朝日新聞が「皇太子さま54歳『今後とも憲法を順守する立場で』」の見出しで歓迎の意を示してゐるやうに、改憲派にとつては芳しからぬ内容となつてゐる。

 そこで、もし内廷が一致して、日本国憲法改正に反対だとすれば、皇帝尊崇の改憲論者はどのやうな姿勢をとるべきか、が大きな問題なのである。
 先に記した分類に従へば、(1)に当るものは、皇室の側近にゐる人々が護憲論になるやうに誘導してゐるのだらうから、無視して気にしない、といふ姿勢が考へられる。(2)に対応するものとしては、両陛下や皇太子はさうお考へかも知れないが、それは戦後の時代精神に追従されてゐるのだから、改憲論の信念は変へない、といふことになる。そして、(3)の立場なら、これ迄自分は改憲派であつたが、今後は護憲の意義も考へ、陛下や殿下に習ふ、といふ態度にならう。

 読者が改憲派で皇室を敬愛する人間だとすれば、如何なる選択をするであらうか?かつて2・26事件で天皇の為に決起した青年将校たちは、天皇によつて掃討されるといふ悲劇を味はつた。天皇国・日本に課せられた難題を軽く見てはなるまい。
(「きづな」平成26年4月号より)

天皇陛下の傘寿を言祝ぎ奉る 「発言集団」代表・中島英迪

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 平成25年12月23日、天皇陛下は満年齢で傘寿をお迎へになつた。昭和8年といふ国際社会激動の時代に誕生され、昭和20年わが国未曾有の敗戦で「大日本帝国」が崩壊した折には12歳。アメリカ軍占領により日本が変質させられた後、昭和27年4月に主権を回復した時には、多感な年齢の19歳であられた。
 昭和26年の被占領時代に18歳の立太子式をされ、正田美智子様とのご結婚が25歳の昭和33年。そして昭和64年、先帝・昭和天皇を継承して第125代天皇として即位されたのは、御歳56歳。戦前・戦中期、被占領期、そして独立期、と全く様相の異なる時代を、皇太子として、天皇として尽力頂いたご苦労は拝察するに余りある多大なものである。
 しかも、これらの時代を通じて、陛下は終始一貫、ご誠実なまごころを持ち続けてこられた。そのご人格の輝きは、日本国民だけでなく諸外国の指導者や要人に投げかけられ、一点の曇りもない「おほみごころ」は、まさに人間の域を超えた崇高といふ言葉にふさはしい。

 いま、公表された御製を拝読することによつて、その大御心の一端を確認させて頂きたい。
 まづ、地震など自然災害の被災者の苦難を慮るおほみうた。
・人々の年月かけて作り来しなりはひの地に灰厚く積む (57歳、雲仙岳噴火)
・なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき (61歳、阪神・淡路大震災)
・土石流のまが痛ましき遺体捜査凍てつく川に今日も続けり (62歳、長野県土石流災害)
・激しかりし集中豪雨を受けし地の人らはいかに冬過ごすらむ (64歳、集中豪雨の被災者)
・六年を経てたづねゆく災害の島みどりして近づききたる (65歳、奥尻島)
・幾すじも崩落のあと白く見ゆはげしき地震の禍うけし島 (67歳、新島・神津島訪問)
・地震により谷間の棚田荒れにしを痛みつつ見る山古志の里 (70歳、新潟県中越地震被災地)
・ガス噴出未だ続くもこの島に戻りし人ら喜び語る (72歳、三宅島訪問)
・災害に行方不明者の増しゆくを心痛みつつ北秋田に聞く (74歳、岩手・宮城内陸地震)
・津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる (79歳、東日本大震災)

そして大東亜戦争の戦没者とその遺族に向けて―
・戦いに散りにし人に残されしうからの耐へしながとせ思ふ (58歳、日本遺族会創立45周年)
・精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき (60歳、硫黄島)
・開拓につくしし人ら訪ひ来れば雲を頂く浅間山見ゆ (69歳、軽井沢町の大日向開拓地)
・あまたなる命の失せし崖の下海深くして青く澄みたり (71歳、サイパン島訪問)
・シベリアの凍てつく土地にとらはれし我が軍人もかく過しけむ (73歳、ラトビア占領博物館)
 ことに沖縄県民の苦悩に思ひを寄せてをられることは日本国民全員の注目に値する。
・激しかりし戦場の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ (59歳、沖縄平和祈念堂前)
・弥勒世よ願て揃りたる人たと戦場の跡に松よ植ゑたん (60歳、沖縄県全国植樹祭)
・ふさかいゆる木草めぐる戦跡くり返し返し思ひかけて (42歳、摩文仁)
 後の二首は、八・八・八・六音の琉歌であり、陛下は独力で詠まれてゐる。昨年の歌会始でご発表になつた
・万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやにたちたり
も琉球王朝を偲んで行幸された折の御製である。

 また、陛下がご両親や恩師に思ひを馳せられた
・霊前にしばしの時を座り居れば耳に浮かびぬありし日の声 (32歳、小泉信三東宮参与弔問)
・ありし日のみ顔まぶたに浮かべつつ暗きあらきの宮にはべりぬ (55歳、殯宮祇候)
・あまたたび通ひし道をこの宵は亡き母君をたづねむと行く (66歳、香淳皇后みまかりまして)
 そしてわが国の歴史や先人への思ひも詠んでをられる。
・百年を祝ふ集ひに先達の功かへりみ彼の御世を思ふ (46歳、明治神宮鎮座60年祭)
・日の本の国の基を築かれしすめらみことの古思ふ (56歳、近江神宮50年祭)
・千歳越えあまたなる品守り来し人らしのびて校倉あふぐ (68歳、正倉院)
 さらに、天皇として最も大切な神祀りについて―
・ともしびの静かにもゆる神嘉殿琴はじきうたふ声ひくく響く (23歳)
・松明の火に照らされてすのこの上歩を進め行く古思ひて (36歳、新嘗祭)
・神殿へすのこの上をすすみ行く年の始の空白み初む (40歳)
・父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ (56歳、大嘗祭)
 これらは平成5年伊勢神宮御遷宮に際して歌はれた
・白石を踏み進みゆくわが前に朝日に映えて新宮は立つ (59歳)
と共に、民族の理想を継承する絶唱と拝することができる。
 平成時代の私ども国民は、このやうな陛下を戴くことができ有難い限りである。天皇・皇后両陛下のさらなるご健勝と末長いお導きをお願ひし奉る。
(「きづな」平成26年3月号より)

両陛下のインド御訪問 「発言集団」代表・中島英迪

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 十一月三〇日から十二月六日までの七日間、天皇・皇后両陛下はインド政府の招きにより訪印された。両陛下とも七十九歳といふご高齢でのこの度の旅行の画期的な意義について、新聞・テレビ等マスコミは全く報じてゐないから、次にその一端を指摘したい。
 実はインド政府は平成十年にも両陛下へのご招待を表明したが、当時インドが核実験をしたことで、核拡散防止条約の締結国であるとの理由で政府はこれを断つた。これは実に愚かな決定であり、消極的な意味での天皇の政治利用に該当する。親日国からの招待に応じることは、政治の次元を超えた国際親善の意味があり、日印両国の友好だけでなく、アジア全体の安定、ひいては世界の平和に大きく貢献できる機会だつたのである。

 では、何故インドご訪問が世界にとつて絶大な意義をもつのかと言へば、インドは世界中で最も有力な親日国であるから、日印が協力すれば中国の覇権主義や米露の権力外交に歯止めをかけ、中東やアフリカ諸国の発展に大きく資することは論をまたないからである。
 まづ、インドがどれほどの親日国であるかの目安として、昭和天皇崩御の折に喪に服したといふ事実が挙げられる。当時服喪した国々は、ビルマ、インドネシアをはじめ元植民地の国々など34ヶ国に上つたが、中でも注目すべきは、ブータン、キューバとインドであつたことを日本国民は忘れてはならない。他国の元首が逝去したことで国を挙げて喪に服するとはどういふ意味かを想像する力は、今日の日本人に欠けてゐるが、これは尋常のことではないとの認識を持つべきなのだ。それは、その政府はもちろん、国民と国家が心の底から信服し敬愛してゐる事実を示してゐる。
 ブータンとキューバといふ他国とひと味違ふ個性ある国々が諸手を上げて日本と天皇を尊敬してゐるといふことも、日本にとつて格別の意義があり有難いことであるが、精神的にも大国であり、物的な実力の点でも、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、シナ、南アフリカ)といふ近未来に大発展を約束されてゐる躍進国家のインドが、日本を信頼し期待をかけてゐる意義は絶大である。

 さて周知のやうに、十二月三日、ムガジー大統領主催の晩餐会が開かれたが、そのご挨拶で陛下は53年前の訪問時に独立当時からの指導者たちと交流したことや、仏教伝来以来の日印両国の長い歴史に触れられた。そしてインド議会が毎年八月に日本の原爆犠牲者へ追悼の意を示してゐることに「心から感謝の意を表します」と述べられた。
 これに対して、歓迎挨拶をした大統領は「両陛下が前回のご来印時にお植えになつた苗は大きく成長し、青々と葉を茂らせる木になりました」と、日本大使館公邸に53年前に植えられ15メートルの大木に育つた菩提樹に言及した。
 さらに、大統領は、両国関係に寄与したインド人として、日本人思想家と交流のあつたアジア初のノーベル賞受賞者の詩人タゴールと、第二次世界大戦中に日本が支援した独立運動家のチャンドラ・ボース、そして戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で日本の無罪を主張したラダビノード・パル判事らの名を挙げたのである。

 こゝに我々日本人は、インドがアメリカの原爆攻撃に不信を抱くと共に、アジア解放の理想を掲げたタゴール、そしてインド独立の父ボースと日本無罪論のパルを正当とするインドの正しい歴史認識を再確認すべきである。それは今日なほ日本を呪縛し続けてゐるアメリカと、ロシアや中国・韓国・北朝鮮などの偏向し歪んだ歴史認識を牽制する国家がインドだといふことを示してゐる。言ふまでもなく、現代日本の抱へる外交・軍事の難題の元凶は、すべてこの歴史認識にある。それが今なほ、わが国の教育に暗い影を投げかけ、マスコミや政治にも悪影響を与へてゐる。安倍首相自身、真底願ひながら靖国参拝を果たせず、宮沢談話・河野談話・村山談話を踏襲してわが国がアジアを侵略したと認めてゐるのも、さらに「特定秘密保護法案」で朝日・毎日の執拗な煽動により読者の大半が、わが国が再び戦争の道を歩み始めたと本気になつて心配してゐるのも、すべてこの誤つた歴史認識のせいなのだ。

 日印の友好と連携は、数学とコンピュータに秀で、映画・アニメの分野で気を吐き、自動車など製造業の盛んなインドとの経済交流が日本の産業に発展をもたらすといふ利益に留まらない。また、暴走国家・中国の息の根を止める為の包囲網を敷き外交的優位を築くのに不可欠の連携だといふに留まらない。それは実に、戦後日本を牛耳り、自らの属国・保護国として利用してきたアメリカの支配から日本を解放しようとする天の助けである。
 バラモン教から仏教を生み出し、いまもヒンドゥー教の深い霊性を維持するインドの叡智が、昭和天皇への服喪をもたらした。第二次大戦の勝者五国の核の恫喝に屈せず、自ら核武装をしながら毅然と立つインド。両国が軍事同盟を結び、日本がインドから賃借か購買により核武装することが、わが国の独立と世界平和実現への第一歩なのである。
(「きづな」平成26年1月号より)

天皇と政治(再続) 「発言集団」代表・中島英迪

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 占領時代に米国から憲法を押しつけられた時、国会に関しては「一院制」が原案であつた。ところが当時の帝国議会での審議で「二院制」に改められた。帝国憲法下では「衆議院」と「貴族院」の二院制であつたから、「一院制」のイメージが掴めなかつたのである。しかし貴族といふ身分は廃止されたから、それに代わつて「参議院」が発足することになつた。
 本来は「貴族院」と同様、政党とは無縁の良識の府として、大所高所から「衆議院」をチェックしようとの趣旨であつた。だが、その理想は果敢なく消えて、「第二衆議院」と化し、「ねぢれ現象」なども生じて国費と時間のムダ使ひに終わつてゐる。
 それもその筈で、「参議院」議員も国民の選挙で選ぶのだから、勅選であつた「貴族院」のやうな機能を果せないのも当然のことであらう。

 そこで「君民共治」の政治制度では、「貴族院」・「参議院」に代るものとして勅選の「顧問院」を設置して、そこに天皇親政を導入することにすればよい。その制度内容の一案を示せば、顧問院議院の資格としては、60歳以上の学識経験者として、政党や政治活動に無縁な者とする。この条件で国政の各分野にわたり専門家を三百人任命し、任期は十年で再任を妨げずとする。
 この顧問院の役割は、三権である司法・立法・行政の決定に対して、審議の結果、疑義がある場合は、それを裁可せず、再考・再審議を勧告することである。その際、顧問院長は不裁可の理由を公表する。三権は再考・再審議を行ひ、同じ結果となれば、その通り成立させるものとし、顧問院の再勧告は不可とする。
 国民はこのやりとりを見て、内閣・国会・最高裁判所に対して、その是非を選挙や世論の形で意思表示を行へばよい。

 さて天皇がどういふ形で政治に関与するのかと言へば、顧問院を天皇直属の機関とし、顧問院長は院の決定に先立つて天皇のご意向を伺ひ、その上で決定の発表を行なふことにする。しかもその決定についての全責任は顧問院長が負ふ形を取る。

 このことにより、(1)天皇の独裁とはならない。なぜなら政治は立法の衆議院と行政の内閣が中心となるから、責任はそちらにある。天皇は顧問院の決議を通して消極的な不裁可といふ拒否権を行使するのみであり、三権はその不裁可権をも覆へすことができるから、民主政治の遂行が妨げられることはない。
 そして公平無私の立場から出された顧問院の不裁可の是非を判断した上で、国民は次の選挙で三権の再決定に対して意思表示をすることができる。
 次にこの制度により、(2)天皇の政治への関与が可能になる。たゞ天皇は政治の全分野に精通してゐる必要はない。顧問院議員を参謀あるいはブレーンとして、意見を聴取し集約すればよい。
 また、(3)政治が失敗しても天皇が責任を取る必要はなく、責任はあくまで三権の長が担ふことになる。
 たしかに、(4)天皇の利用•悪用の問題は残るが、仮に顧問院の院長が政治を私欲で牛耳らうとしても、司法•立法•行政の側はこれを無視すればよいから、その影響を受けることはあり得ない。また、独裁的な権力者が首相となり、顧問院を支配下に従属させようとの野望を持つたとしても、天皇にはそれを阻む権威があり、政治や議会の権力がこれを凌駕することは不可能である。
 つまり、内閣や国会が天皇を政治利用することは完全に阻止することができる。そのやうな目論見があれば顧問院は不裁可にするだらうからである。それでも三権の側が再度同じ決定をすれば、国民からの激しい批判を受けることになる。
 最後に、勅選の顧問院議院の選び方であるが、最初は政府が学識経験者数十名程度から成る諮問委員会を作り、そこで三百名の議院を決定すればよい。そして発足以後は、任期が来たり欠員が生じれば顧問院内部で補充するのである。無論、いづれも天皇から任命されるべきことは言ふまでもない。

 なほ、この制度は、わが国、憲政史上初めてとなる新しい形であり、復古的な旧い政治に戻るものではない。また、天皇絶対主義の狂信などとは全く無縁である。世界でも初めての、魅力ある君民共治の政治形態となるであらう。
(「きづな」平成25年12月号より)

天皇と政治(続)  「発言集団」代表・中島英迪

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 天皇の政治的位置づけの話となれば、数々の疑問や懸念が提出されるだらう。そのいくつかを列挙すれば次のやうになる。
 イ、「また天皇か?古めかしい。」「いまどき天皇を持ち出す復古調、逆コースはご免だ。」「天皇絶対主義の狂信で、再び失敗を繰り返してはならない。」
 ロ、天皇制は民主主義に反する。君主制と民主制は相容れず、日本人が尊い犠牲を払つてかち取つた今の民主主義を放棄すべきではない。
 ハ、そもそも天皇に政治を行なふ能力があるとは思へない。政治とは極めて複雑な営みであり、政治力を身につけるのは容易でない。
 ニ、天皇による政治が失敗した時、誰が責任を取るのか?途中でダメだと解つても方向転換できず、先の大戦のやうに破滅にまで進んでしまふ。
 ホ、天皇の取り巻き勢力が天皇を利用して自分達の利権を得、甘い汁を吸はうとする独裁・専制に流れる危険は極めて大きい。

 イ、は歴史認識の問題である。このやうな意見の持ち主は今日のわが国では少なくない。アメリカの占領政策と、共産党、社会党、そして日教組などもそのやうな偏向的な歴史観を持つてゐて、いはゆる「朝日・岩波・NHK」の思想を受け継いでゐる人たちである。
 結論のみ記せば、わが国が無謀な侵略戦争を仕掛けた事実はない。天皇を頂点とする戦前の体制が諸悪の元凶であるといふ認識は誤つてゐる。天皇を元首として政治の指導者に位置づけることこそが、日本の伝統にふさはしい。

 ロ、君主制と民主制とが対立、矛盾するといふ解釈は、政治学のイロハに無知だといふことを示してゐる。「君」と「民」との対立だと思つてゐるのだらうが、「民主制」の対立概念は「独裁制」である。国民の衆知を結集して政治を行ふのが「民主制」、一人の独裁者に全権を托すのが「独裁制」である。一方「君主制」の対立概念は「共和制」であり、それは君主が存在するか否かの違ひである。「共和制」は国王が不在なので大統領または首相が代替的な役割を担ふことになる。
 さて民主制の弱点は、国民の各層が自分たちの利益や主義主張を押し立てて、収拾がつかなくなりやすいことである。最後は多数決といつても腐敗や権謀術数が横行し、物事が遅々として進まなくなり、衆愚政治と化しやすい。イタリアなどがその典型だが、わが国の政党政治もこのやうな歴史を持つ。その点、中国や北朝鮮、そしてロシアなども含めた独裁制の方が即決即断で、事態への対処の点ではるかに効率的である。たゞ独裁制は一旦判断を間違ふと破滅に迄走つてしまふといふ危険があるのは周知の通りである。
 君主制で民主主義の国は、歴史的に見て政情が安定するのは周知の事実だが、イギリス、オランダ、スウェーデン、デンマークのやうな王制の国家も、戦後の日本と同様、君主が直接に政治を行なふことはない。この点で民主制の弊害を抑制するための大きな働きはできてゐない。
 そこで、利益代表の闘争の場となる民主主義政治を補完する方策が、公平無私の天皇による政治参加である。この点、戦前の「大日本帝国憲法」体制は、必ずしも理想とは言へない。天皇が政治に関与されたこともあるが、多くの場合は傍観的、形式的に臣下の結論を支持されてゐたに過ぎない。又、政治参加についても、旧憲法に一工夫、二工夫あるべきだ。

 ハ、はもつともな見解であるが、天皇は政治の全貌に通暁するには及ばない。決断の必要な問題、結論が分かれて判断が必要な時、大所高所から指導されゝばよいのである。

 ニ、も確かに天皇の独裁政治が行なはれた時には、失敗の問題が出てくる。だが、天皇参加の民主政治なら、たとひ失敗しても天皇に責任の及ばない「無答責」の制度を工夫することができる。途中での方向転換も十分に可能となる。
 先の大戦の場合は、米・英・露・支など強力な国家から騙され、追ひ込まれたのだから、わが国は一丸となつて死に物狂ひで戦ふほかないといふ特殊事情があつた。

 ホ、も大事な視点で、日本人には江戸幕末から「玉を奪ふ」といふ天皇利用の悪習があるため、たしかに警戒を要する。しかし、絶対にそれを繰り返さないやうな安全装置を施することはできるのではないか?

 ではこれらの懸念を払拭できる天皇政治が存在するのであらうか?然り、それこそが「君民共治」の理想体制なのだ。
(「きづな」平成25年11月号)

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